ここだけの話、今回はこんな話です
みんなのねんきん社会保険労務士法人で障害年金手続きを代行する仕事を始めて2023年3月で3年を迎えます。
私が社会保険労務士を目指そうとしたきっかけは、自身の障害年金手続きを自分で行なったことにあります。
そして、障害年金手続きを行なったきっかけは、職場で大怪我をしたことまでさかのぼります。
あの怪我が私の人生を左右するターニングポイントだったといえます。
今回から連載のコラムとして怪我をしたときから障害年金手続きを経て、社会保険労務士となった現在までをたどってみます。
物を購入するとき・サービスを受けるとき、「誰から買うか」ということはとても大事。
障害年金手続きをご依頼いただくにあたり、まず、私自身のことを知ってもらいたいというのが連載の趣旨となります。
第1回は「事故発生から退院まで」をまとめました。
ここだけの話、第1回は事故発生から退院までをたどります
金属加工の工場で働いていました
私は大学卒業後、20名程の製造業で金属加工の工場に勤めていました。
事故の当時は部門長に抜擢されたばかりでした。
役職者としての責任が生じるだけでなく、業者との対応、納期対応の改善策の提案など、業務量が多くなっていました。
当時の私は、目の前の業務に追われ、余裕がなくなり、安全への意識も希薄になっていたと思います。
機械の使用方法は、見様見真似で覚えたものでした。
実は正しい使用方法を知らずに動かしていたのです。
あの事故があった日、その日は材料の配送便が渋滞で遅れていたことや数日後の会議資料を作る必要があり、焦っていました。
事故にあった機械は、金属を薄くするもので上下に二つのローラーがあり、それぞれ回転するもの。
材料を受け取り、軽量、検品を素早く終わらせると終業まではあと2時間。
そんな気持ちでした。
焦りが産んだ悲劇
とにかく焦っていました。
急がないとまずい。
1分1秒でも早く・・
そして・・
・・
気付いた時には、左手が機械に巻き込まれていました。
痛みを感じるよりも、作業を失敗したことを悔やむ気持ちが強かったです。
周囲に人がいなかったので、声をかけても反応がありません。
自分で機械を操作し、手を抜きました。
左手は、怖くてはっきり見られません。
急いで、人がいる所へ行き救急車をお願いしました。
救急車がサイレンを鳴らし到着するとストレッチャーに乗せられました。
痛みは酷かったのです。
ですが、気絶できずにひたすら我慢することしかできませんでした。
病院に着いてもすぐに治療とはなりませんでした。
担当科の医師が手術中で、処置できる医師がいなかったのです。
待つしかありません。
痛みと心細さを堪えるのに精一杯でした。
ところが・・
こんな状況下で私を訪ねてくる人たちがいました。
二人の警察官が事故の事情聴取に来たのでした。
と、冷静でいられませんでした。
内容は、事件性があるかどうか、第三者が係わっていないかどうか確認したいとのこと。
痛みに堪えることで精一杯だったのを察してくれたのか、5分程度で「あとは、会社と話し合って〜」で終わりました。
その後、ようやく医師が来て、左手の状況を確認。
はめていた軍手がハサミで切られ、どのような状態か確認しようと身体を起こそうとしたところ、
と止められました。
すぐに緊急手術が必要となりました。
初めての全身麻酔、あっという間に意識がなくなりました。
手が元に戻る可能性はあるか?
緊急手術が終わり、目が覚めたのは、集中治療室の中でした。
意識が戻ったら一般の病室に移動するとのこと。
全身麻酔のせいか、頭はボーっとしていて、身体に力が入りません。
フラフラと歩いて移動。
ベッドに横になり、自分の身に何が起きたのか把握しようとしました。
左手は、包帯がびっしり巻かれよく見えません。
怪我したはずの指も動かそうとすると、しびれはありますが、少し動かすことができるようでした。
どうやら、まだ人差し指から小指までの四本の指はあるようでした。
その日の午後は、次から次へと検査や医師の診察が続きました。
そして、レントゲンを見ると緊急手術で粉々だった骨は見事に元の位置へ戻っていたのです。
医師の技術に驚き、そんなに悪くはないのでは・・・期待せずにいられませんでした。
しかし、医師の見解は、厳しいものでした。
血管がボロボロで、指先にある毛細血管の修復が難しいこと、血が通わないとどんどん壊死してしまうこと、機械のバイ菌が悪影響を与えること・・・悪い情報ばかりでした。
元のようにはならないとなると、どうなってしまうのだろうかと不安になりました。
ベッドに戻ると不安、焦り、痛みなど、暗いもので押しつぶされそうでした。
当然会社にいくことはできません。
有給休暇は限られています。
給料が減ってしまったら大変です。
会社からの連絡では、給与の締日までは有給休暇でその後は、会社の保険で何とかなるとのことでした。
意味がわかりませんでしたが、説明されても理解する余裕がなく言われるままにしました。
左手をお腹に入れる?治療法
入院中でも、歩くことはできたので、病院近くの公園に行くようにしていました。
ベッドの上でじっとしていると、よくないことばかり考えてしまうから。
公園を歩くだけでも気分転換になりました。
一歩一歩踏み出す足に意識を集中し、ゆっくり公園を一周することが日課でした。
たまたまですが、その病院の理学療法士に同級生がいて、思わぬ再会もありました。
そして、
整形外科の治療では、皮膚などの表面上の治療ができないことがわかりました。
医師から治療方針の説明を受け、形成外科で診断が必要でしたが、入院中の病院には形成外科がなく、別の病院で診断してもらうことに。
別の病院に診てもらう日の前日、ちょうどテレビで再生医療の特集番組が放送されていました。
腕のない方が最先端の再生医療で腕ができていく内容でした。
と、期待せずにはいられませんでした。
レントゲンの画像が入ったCD-ROMを持って別の病院の形成外科に行きました。
診察室では複数の医師が診てくれ、どのように治療していくか検討がなされました。
結果は、期待を裏切るものでした。
とのこと。
テレビで見た再生医療のことを聞いてみると、
とのことでした。
指がなくなることがほほ決まり、暗い足取りで病室に戻りましたが、同じ部屋の患者たちには、何とか明るく振舞おうとしたことを覚えています。
手術後は、形成外科のある病院に転院し治療していくことに。
具体的な治療法は、左手の皮膚にお腹の肉をくっつけて手の皮膚の代わりにするとのことでした。
皮膚がくっつくまで、左手をお腹に1カ月ほど入れておく治療法です。
義手をつける可能性もあるとの説明もありました。
切断、激痛との戦い・・
形成外科での受診から1週間後に手術を行うことが決まりました。
一日一日と手術の日が近づいてくる。
心境は暗くなるばかりでした。
自分の体の一部がなくなってしまうことを前向きに捉えることはできません。
今回は、緊急手術ではないので事前に麻酔科などの説明が行われました。
全身麻酔も100%大丈夫なものではなく、中には目が覚めない事例もあるとのこと。
さらに不安が増しました。
手術の日は、あまり覚えていません。
看護師が段取りしてくれ手術室に行ったのだと思います。
全身麻酔から覚めた時、待っていたのは今まで経験したことのない痛みでした。
動くこともできず、唸ることしかできませんでした。
左手は、お腹に入れられ動かすことはできません。
四本の指を切断したことを残念と思うよりも、ただただ痛みと戦うしかありませんでした。
一晩中、痛みにうなされ、ナースコールを何度も押しました。
錠剤の痛み止めでは、歯が立たず、筋肉注射を打ってもらうほどでした。
それでも痛みは治まりませんでした。
社会保障という希望
手術の翌日が形成外科のある病院への転院の日でした。
一晩中、痛みにうなされていたため、自力では動く事ができません。
車椅子に乗せられ、同じ病室の方へのあいさつも満足にできない状況でした。
何とか病院玄関まで辿り着けましたが、自動車に乗るのも大変でした。
歩いて行ける距離でしたが、歩けないとこんなにできないことが増えてしまうのか・・・。
何とか転院手続きを終え、ベッドに横たわりました。
左手は、お腹に入ったままです。
お腹の皮膚が左手につくまで、毎日の点滴が必要でした。
その後も二度の手術を行う必要がありました。
当時、病室では携帯電話の使用は禁じられていました。
ベッドの上では、本を読むかテレビを見るかしかできません。
インターネットもなく、自分では何も調べることができません。
不安で一杯でした。
今までできていたことができなくなる・・・今の仕事が続けられるのか・・・身体は動くことができるのか・・・治療費とかお金は大丈夫なのか・・・。
ただ、妻がいろいろと調べてくれたのです。
「障害年金」の対象になりそうなこと、「労働災害」で治療費も大丈夫そうだということなど・・・。
考えてみると、社会保障について学校で教えてくれるわけでもなく、健康なうちは興味も湧かないのでその中身も全く知りません。
障害年金や労災保険が対象になりそうなことだけが、たった一つの希望でした。
当たり前にできたことが、できない事実・・
入院生活は、約3カ月でした。
手術は短時間のものも含めると計4回行いました。
左手がお腹から外されても、起き上がることは禁止されていました。
寝返りも許されず上を向いた状態で数日間過ごしました。
ずっと同じ向きで寝ていると床ずれができ、痛みで寝ていられません。
見えている世界も一部しかなく、自分が見たい方向を見ることができません。
寝たきりの状態というのは、非常にストレスが溜まってしまうことがわかりました。
お腹の創面が落ち着くと起き上がれるようになりました。
その後、歩けるようになるまではそれほど時間はかかりませんでした。
病院内を散歩できるようになると、退院が決まりました。
あとは外来通院で二週間に一度経過をみてもらいます。
退院が決まり、病院以外での生活を前に、不安が大きかったことを覚えています。
障害が残り、これまで、当たり前にできたことができない事実。
自分ではできないことでも、病院では頼める人がいました。
病院の外では、頼んだら嫌な顔をされてしまうのでは・・・障害者として避けられてしまうのでは・・・
これから先のことを考えると不安や焦りが大きくなっていました。
(つづく)
岡田真樹
みんなのねんきん社労士法人代表