ここだけの話、今回はこんな話です
みんなのねんきん社会保険労務士法人で障害年金手続きを代行する仕事を始めて2023年3月で3年を迎えました。
私が社会保険労務士を目指そうとしたきっかけは、自身の障害年金手続きを自分で行なったことにあります。
そして、障害年金手続きを行なったきっかけは、職場で大怪我をしたことまでさかのぼります。
あの怪我が私の人生を左右するターニングポイントだったといえます。
そこで、怪我をしたときから障害年金手続きを経て、社会保険労務士となった現在までをコラムでたどってみます。
物を購入するとき・サービスを受けるとき、「誰から買うか」ということはとても大事。
障害年金手続きをご依頼いただくにあたり、まず、私自身のことを知ってもらいたいというのが連載の趣旨となります。
第2回は年金を始めとした「社会保障を受ける手続き」を中心にまとめました。
第1回はこちらです。
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障害あっても前を向く―指を失ったことが人生の転機となった理由― 第1回 事故発生
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ここだけの話、第2回は年金の手続きと復職・退職までをたどります
前回までのあらすじ
大学卒業後に就職した金属加工の工場。
作業への焦りから左手が機械に巻きこまれてしまいます。
緊急手術で指は元に戻ったように思えたのもつかの間、腐食が進み親指以外を切断するしか道がありませんでした。
絶望の淵に立たされながらも障害年金という社会保障に希望を見出そうとするのですが・・・。
自分自身で行った年金・障害者手帳の手続き
我が国の社会保障制度からお金を受け取るためには、自ら動いて手続きしないといけません。
実は、そんなことも知らなかったのです。
病院・会社・行政は繋がっていて、障害を負えば自動的にお金が支給されるものだと思っていました。
今回は、事故を経て、私が自分自身で行った社会保障制度の手続きをまとめるところからコラムを始めます。
- 厚生年金制度からの障害年金
- 労災保険制度からの障害年金
- 障害者手帳の取得
厚生年金制度からの障害年金
医師に書類作成を依頼するときは文書作成窓口を通すべし
年金といえば、日本年金機構。
どうすれば良いかもわからないので、とにかく年金事務所に足を運んでみました。
相談ブースで説明を受けたのですが、何の説明をされているのかちんぷんかんぷん。
理解できたのは、書類を何枚も出さなくてはならないことでした。
必要な書類は、病院で書いてもらうものばかり。
今、通院している病院だけならよかったのですが、最初に運び込まれた病院に書いてもらう書類もありました。
指を欠損した事実がわかれば良いはずなのでレントゲン写真を見てもらえば十分のはず。
ところが、多くの書類を提出しなければならない意味がわかりませんでした。
途方に暮れていても仕方ありません。
まずは、
最初に救急車で運び込まれた病院に行きました。
現在受診している病院ではないので、誰に頼んでいいかわかりません。
総合受付で聞いてみると「文書受付」窓口があるとのこと。
依頼後、1週間ほどかかって書類は出来上がりました。
時間がかかることもさることながら、書類に数千円の代金がかかることにも驚きました。
次に、
今通院中の病院にも書類を依頼する必要があります。
前回よりも大きな書類で表裏両面に記入するもの。
医師に作成してもらう「診断書」です。
診断書といっても、医師が自由な書式で作ったものではNG。
日本年金機構仕様の様式でないと受け付けてもらえないです。
最初の病院で書いてもらった書類とは何がどう違うのか?
と思いながら、受診の際、医師に書類をお願いすると、文書受付窓口を経由しないと受け取れないとのこと。
ここでも専門の窓口を経由しないといけません。
このようにある程度規模が大きな病院では文書作成専用の部署があり、そこを通さないといけないということがわかります。
診断書作成のために、医師との面談も必要とのことでした。
面談では、指が欠損したことで日常生活にどのような影響があるのかを確認されました。
診断書が出来上がるまでしばらく時間がかかることを医師から言われ、そのことを伝えに年金事務所へ行きます。
すると今度は、自分自身で記載する書類を渡され、全ての書類を一緒に持ってくるよう指示されました。
自分で記載する書類は、素人である私自身が書き上げないといけません。
ケガしてからの現在までの状況を書くものと、名前や家族の状況などを記入する2種類がありました。
併せて戸籍謄本や住民票も提出するよう言われました。
ここまで年金事務所へ通ったのは通算3回。
一体、いつになったら手続きが終わるのか、先が見えません。
年金受給までは半年程度かかることを覚悟すべし
障害年金手続きと並行して経過観察治療のため、月に2度病院に通院していました。
私の場合、リハビリ科と形成外科の2つの診療科が関係しており、リハビリ科で作成が進められています。
したがって、形成外科の診察時に診断書の進み具合を確認してもわかりません。
進捗がわからないまま、自分で完成させる書類も進めなくてはいけません。
ケガをしてから現在までの数カ月間のことを書きあげるのに数日かかってしまいました。
そうこうしているうちに、病院から書類が完成したとの連絡。
前回よりも書類の代金が更に高額だったので支払いを戸惑ったことを覚えています。
その足で再び年金事務所へ。
担当の方に、書類を見てもらい、「これでやっと終わった」と思ったのも束の間、医師が作成した書類に誤りがあることがわかりました。
書類を返却され、自分で病院に行って直してもらうように、と指示されました。
年金事務所から直接病院に修正の指示を出してくれるものだと思っていたので驚きです。
全ては自身で書類を整えなければならないのです。
訂正箇所には医師の訂正印が必要でしたが、病院の窓口を通すとハンコ一つもらうだけなのに、また時間がかかってしまいます。
そこで、ダメ元で担当医師に直接会いに行ってみました。
作成してくれた医師がちょうど通りかかったので、事情を説明して修正印を押してもらいました。
そして再び年金事務所へ(1日に2度も病院と年金事務所に行くことは普通ないでしょう)。
無事に書類を受け取ってもらい、ようやくやれること全てが終了。
最後の担当者の言葉に心が折れそうになりました。
こんなに苦労したのに、審査がダメなことがあるなんて・・・世の中不条理だなと感じました。
最終的に手続きを独力でできたのは、私一人で移動が可能だった・休職中だったので時間があったからです。
これが外出することが大変な病気やケガだったら、きっと手続きは無理だったでしょう。
何度も年金事務所や病院に足を運ぶことは大変な労力でした。
また、自分で書かなくてはならない書類も、時間があったからなんとかできたと思います。
仕事を復帰したあとではそんな時間は取れなかったと思います。
その後、障害厚生年金3級が認められたのですが、結局自ら動き出してから実際に年金が振り込まれるまで半年ほどかかりました。
労災保険の手続き
症状が固定してしまうと治療費がカバーされない?
仕事中にケガや病気をした場合は労働災害ということになり、労災保険からも社会保障を受けられます。
障害厚生年金と併せて、この労災保険からの給付金も受けられるのは有り難い仕組みです。
さて、
手続きを進めながらも、ケガの経過観察治療のために病院への通院は続けました。
病院に支払う治療費は、労災保険でカバーされるため、自分で治療費を負担することはありません。
それまでの入院や手術の費用もそうでした。
そして、
労災保険では、医師が症状が固定したと判断するまでは、治療費はずっと保険がカバーしてくれます。
ただ、医師もどのような状態を労災保険上の症状固定と判断するのか認識できていないようでした。
長期間、通院を続けていると、労働基準監督署から連絡がありました。
まだまだ、通院の必要があることを医師から聞かされていたので、困りました。
というのも、
症状が固定と判断されたら、労災保険からの治療費がストップするので以後は自分で治療費を負担することになってしまうからです。
ただし、
ここで労災保険からの給付金がまったく終わってしまうわけではありません。
逆に症状が固定すると障害に対する年金(障害補償年金)が支給される可能性があります。
つまり、
これ以上治療の効果がなく、症状が固定すると、治療費の支給に代わって障害年金に切り替わるということ。
どちらにしても労災保険からの給付金は受けられることに安堵しました。
労災保険の窓口は労働基準監督署
労災保険の手続き窓口は年金事務所ではありません。
労働基準監督署です。
手続きの流れは、
医師に診断書を書いてもらうこと
労働基準監督署の指定する医療機関で診察を受けること
必要書類に記入すること
でした。
通院の際、医師に労働基準監督署とのやり取りを伝えました。
症状が固定した時は労災保険の年金用書類をお願いすることになることを説明しました。
このやり取りで感じたことは、医師は治療の専門家であり、社会保障制度の専門家ではないということです。
手続きの細かい部分はご存知ないようでした。
書類を依頼して、後日出来上がると労働基準監督署へ行き、手続きを進めました。
必要書類への記入は、労働基準監督署で指示されながら行ったので提出までスムーズでした。
診察のほかにレントゲンを撮り、その後労働基準監督署の方との面談を行いました。
手続きは一日がかりでした。
審査の期間は、公的年金の障害年金より長く、年金が振り込まれるまで7カ月かかりました。
また、障害厚生年金の手続きと異なり診断書の代金が後日支給されました。
こういったところからも労働災害に対する保障は手厚いものを感じました。
障害者手帳の申請をする
ここで年金から離れて、厚生年金制度からの年金・労災保険制度からの年金の他に、身体障害者手帳の手続きを行いました。
身体障害者手帳を持っていると、公共交通機関の割引などのサービスを受けられるメリットがあります。
最初に役所の障害福祉課に行き、手続きの方法を聞きました。
障害年金と同じように 病院で書類を書いてもらう必要があるとのこと。
障害厚生年金の手続きも同時に進めていたため、そのための書類を病院に依頼したばかり。
今度は身体障害者手帳の手続きで、書類作成をお願いするのは気が引けました。
というのも、医師は忙しいからです。
医師不足もニュースになっていましたが、入院中や通院時の医師の動きを見ていると、いつ食事をとっているのか、何時まで仕事しているのか、患者の自分が心配になるほどでした。
障害年金や身体障害者手帳の手続きに書類が必要ですが、あまり頻繁に通常の業務と違う書類作成を依頼することは、迷惑を掛けることになると思わざるを得ません。
今回は書類の修正もなく、何度も役所を行き来することなく手続きが終了しました。
しかも、身体障害者手帳のための書類代は、労災保険と同じく、補助金として後日補填されました。
審査も一カ月ほど。
発行された身体障害者手帳を見て、本当に自分は障害者になってしまったのだな・・・と実感させられました。
2011年(平成23年)3月11日 復職初日
ここからは社会保障手続きの話を離れ、私が復職した以降の話をさせてください。
休職期間を終了し、復職することになりました。
給与の締日が毎月10日の会社でしたので、2011年(平成23年)3月11日に復職することになりました。
ただ、不安で一杯でした。
皆から邪魔者扱いされないか、居場所はあるのだろうか、仕事はあるのだろうか、どうしても前向きにはなれませんでした。
上司と復職後の業務内容を打ち合わせ、製造作業に直接関わらず、主に管理業務を行うことになりました。
今までの業務と違う業務になります。
工場内ではなるべく明るく振舞うようにしていました。
約3カ月ぶりの職場でしたので、他部署からも声をかけられ心配していたことを伝えられました。
復帰初日も午後になり、なんとか無事に一日を過ごせそうだと思い始めたその時・・。
大きな地鳴りとともに、これまで感じたことのない大きな揺れを感じました。
身の危険を感じ外に避難しました。
建物や木、駐車してある車が激しく揺れています。
なかなか揺れは収まりません。東日本大震災でした。
揺れが収まった後、工場内を見回すと、倒れるはずがないと大型の機械が倒れていたり、薬品の配管パイプが割れ有毒ガスが充満していたりと酷い状況に。
復職初日が東日本大震災となり、何がなんだか訳が分かりませんでした。
日常に戻ってきたはずなのに、災害により非日常へとさらに戻されてしまいました。
その後は、工場の稼働が通常に戻るように、ケガを気にする暇もなくガムシャラに仕事をせざるを得ませんでした。
PTSDを発症。退職へ・・・
ケガから復帰してからは、東日本大震災の処理、新しい製造工程への対応など障害を気にする暇もなく仕事をしていました。
管理業務が中心となる予定が、人員整理の影響もあり、製造作業も担当せざる得ない状況になっていきました。
仕事を進めて行くと障害のためにストレスを感じることが多くなっていきました。
左手は常に痺れているだけでなく、雨や気温の変化によって、痛みがひどくなることがあります。
他の人に言っても痛みはなくなりません。
頻繁に痛みましたが仕事を休むことなく、痛み止めを服薬しながらやり繰りしていました。
ケガする前は、一人で出来ていたことも、誰かに頼まないといけません。
そんな時は、工場内を駆け回り手伝ってくれる人を探していました。
人に頼むということは、自分にとってやりにくいものでした。
他の人の時間を奪ってまで頼んでよいのか、他の人の邪魔になっていないか、と考えてしまうのです。
また、
大怪我をした原因となった機械は、復職後もそのまま稼働していました。
毎日、その機械の近くを通らなければなりません。
機械が目に入ったり動いている音を聞いたりすると身体に異常が出てくるようになりました。
左手の先から肩のあたりまで緊張し動かなくなったり、痛みが出てしまったりすることが増えてきました。
緊張や痛みだけでなく、事故直後を思い出してしまうフラッシュバックも起きてしまい、判断や考える能力に影響が出ていました。
眠れない日も増えて、体調にも影響が出てきたので、近くの診療所で診てもらうとPTSDと診断されました。
身体の面でハンデがあるだけでなく、判断力や思考力が上手くいかないと仕事がまわりません。
このままだとさらなる事故を起こしてしまうのでは、と恐怖もありました。
どんどんPTSDの症状が酷くなっていき、これ以上は工場での仕事を続けることは難しいと判断し、最終的に退職しました。
指を失くした分、色々無理をしないと仕事が続けられない状況だったと思います。
(つづく)
岡田真樹
みんなのねんきん社労士法人代表